亀甲墓(かめこうばか)とは
亀甲墓
亀甲墓とは沖縄独特のお墓のことで、きっこうばか・カーミヌクーバカとも呼びます。
お墓の屋根部分が亀の甲羅の形に似ているために、そう呼ばれています。
亀の甲羅の形をした屋根の下に墓室があり、墓室には蔵骨器(厨子甕:ずしがめ)が収められています。
蔵骨器は簡単に説明すると骨壺です。
さらに墓室の前には墓庭といって祭祀のための場所があります。
そもそも亀甲墓は中国で作られていたお墓にルーツがあると考えられています。
中国では唐墓と呼ばれ、沖縄の亀甲墓と同じようにやはり亀甲の形をしています。
ただ沖縄の亀甲墓と異なる部分も少なくありません。
そのため中国から伝わったお墓の様式に沖縄独自の様式が加わったと推測されます。
また中国では一個人のお墓であることが多いのに対して、沖縄では家族・一族単位です。
亀甲墓(かめこうばか)の歴史
本 読書
亀甲墓は明治時代になるまでは、沖縄の士族だけにしか認められていませんでした。
ただ廃藩置県の後は、一般庶民にも亀甲墓の建造が認められます。
17世紀後半
廃藩置県後
戦後
17世紀後半
亀甲墓が作られるようになったのは17世紀後半からです。
それまでは自然の洞穴や掘った横穴に遺体を運び、穴の入り口をふさいでいました。
この墓を堀り込み墓(フィンチャー墓)と呼びます。
そしてこの堀込墓の上部に亀甲型の屋根がつき、亀甲墓となりました。
一番古い亀甲墓は那覇市にある伊江御殿(いえうどぅん)の墓です(詳しくは後述)。
18世紀になると本格的に亀甲墓が主流となっていきます。
ただし亀甲墓は王族や士族だけにしか認められませんでした。
廃藩置県後
一般の人々でも亀甲墓が作れるようになったのは明治時代に入ってからです。
廃藩置県後に盛んに造営されるようになります。
ただ第二次世界大戦中の激しい沖縄戦の戦火によって多くの亀甲墓が破壊されました。
亀甲墓が防空壕として利用されていたことも理由の1つです。
米軍は亀甲墓に日本軍の拠点があるとみなして攻撃していた背景もあります。
戦後
戦後、アメリカ軍の支配下で土地の区画整理などが実施された際に、多くの亀甲墓が撤去されていきました。
そして戦後は核家族化・都市部への人口集中が始まります。
また墓地埋葬法などの関連で、新しく亀甲墓のような大型の墓も作りにくくなっています。
それに伴って亀甲墓の大きさも小型化、素材もコンクリート製・御影石などが主流です。
亀甲墓(かめこうばか)の構造
亀甲墓
亀甲墓の形・大きさは時代とともに変化していますが、基本的な部分のつくりはほぼ同じです。
基本的なつくり
亀の甲羅のような屋根部分はチジュと呼ばれます。
その下には墓室があり、入り口は石(ヒラチ)でふさがれています。
墓室の前には ハカヌナーという祭祀用の庭が設けられています。
さらにこの庭を 袖垣(スディガチ)が囲っています。
墓の入り口には石垣(ヒンプン)があり、 外から直接内部が見えないようにしています。
沖縄で使用される骨壺は、本州の骨壺よりも大きくなります。
その骨壺を納めるためにも 亀甲墓内は広々としており、奥行きは約4mあります。
墓室の内部入り口にはまずシルヒラシがあります。
シルヒラシは新しい遺体が白骨化するまで置いておく場所のことです。
さらに奥側になるほど高くなる棚、最奥にはノーシがあります。
白骨化したら洗骨して骨壺に収め、棚に置きます。
新しい骨壺は手前、古い骨壺は奥に置きます。
33回忌を終えたら最奥のノーシで合葬されます。
内部と関連する思想
亀甲墓の特徴的な形は、 母体あるいは子宮を象徴だと考えられています。
「人間は死んだら子宮に還る」という思想が根底にあります。
中国の思想では、人間の一生を四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)に当てはめています。
死を迎える老齢期は玄武(亀)に当たるため、亀の甲羅を模しているという説があります。
また、亀甲墓は単に破風墓の屋根部分を変えただけという説もあります。
亀甲墓(かめこうばか)の代表的なもの
亀甲墓
沖縄県内には歴史的に有名な亀甲墓がいくつもあります。
その中でも知られているのは 伊江御殿墓(いえうどぅんばか)と読谷山御殿墓(ゆんたんざうどぅんばか)です。
ちなみに御殿(うどぅん)とは王族の住む邸宅だけでなく、そこに住む人のことも指します。
伊江御殿墓
読谷山御殿の墓
伊江御殿墓(いえうどぅんばか)
1687年に造られた 伊江御殿の亀甲墓は、沖縄県内でも最も古いものとして有名です。
近代の亀甲墓の特徴をほぼ備え、1999年には国の重要文化財に指定されています。
一般的な亀甲墓にはヒンプン(屏風のこと)という沖縄独自の石垣が設けられています。
ただし 伊江御殿墓にはヒンプンが設けられていません。
ちなみにヒンプンは沖縄の民家にも見られ、魔除けや外側からの目隠しなどの役割があります。
住所 沖縄県那覇市首里石嶺町1丁目62の4付近
アクセス バス停「石嶺団地入口」より
徒歩4分
料金 不明
営業時間 不明
読谷山御殿(ゆんたんざうどぅん)の墓
読谷山御殿は現在の読谷村を治めていた琉球王族の一つです。
読谷山御殿の墓が作られた年代不明です。
ただ初代の朝憲が亡くなった19世紀前半頃の造営とみられます。
石組みの技術の高さがうかがえる亀甲墓です。
読谷山御殿の墓は 沖縄県内では最大規模を誇る亀甲墓で、那覇市指定の有形文化財です。
住所 沖縄県那覇市首里石嶺町2丁目68付近
アクセス バス停「自治会事務所前」より
徒歩4分
料金 不明
営業時間 不明
亀甲墓(かめこうばか)以外の沖縄のお墓
墓
亀の甲羅の形が独特の亀甲墓以外にも、沖縄には本州では見られない形態のお墓が存在します。
屋形墓
屋形墓(ヤーグヮーバカ)は小型の家の形をしたお墓です。
琉球王族にしか認められなかった破風墓(後述)をまねて作られたお墓です。
破風墓は三角屋根が特徴ですが、屋形墓は三角屋根ではないという違いがあります。
お墓の中の構造は他の亀甲墓や破風墓と同じです。
破風墓(はふばか)
堀り込め墓にいろいろな装飾を施したものが破風墓です。
屋根の部分が破風屋根になっているため、破風墓と呼ばれます。
屋形墓に似ていますが、墓室は洞穴や横穴です。
有名な破風墓としては玉陵(タマウドゥン)があります。
破風墓は当初、王族にしか認められていませんでした。
亀甲墓と同じく廃藩置県後に、一般の人々も造ることが認められて今日に至ります。
【コラム】沖縄のお墓参り
お墓参り
沖縄のお墓参りのタイミングは、本州と大きく異なります。
沖縄のお墓参りのタイミングには以下のものがあります。
十六日
清明祭
七夕
旧暦
十六日
十六日(ジュールクニチ)は旧暦1月16日に訪れる、いわば「死者のための正月」です。
この十六日には仏壇とお墓にお参りします。
主に沖縄本島よりも離島で行われています。
十六日は3回忌までとする地域も少なくありません。
清明祭
毎年4月5日前後に訪れる清明節には、 清明祭(シーミー)が執り行われます。
墓前で食事(お供え物)などが振る舞われ、参加者で歓談する行事です。
このように 墓前でお供え物を一緒に食べることをウサンデーといいます。
また、この時に出される食事はウサンミと呼ばれます。
七夕
本州では七夕は7月7日(新暦)です。
ただし 沖縄では旧暦の7月7日が「タナバタ」で、旧盆の一週間前に当たります。
本州とは違って織姫や彦星、短冊をつけた笹は登場しません。
タナバタは正月や清明祭と同じぐらい大切な行事です。
この旧暦の7月7日にお墓を掃除し、ご先祖様をお招きします。
旧暦
沖縄のお墓参りはすべて「旧暦」に合わせて行われます。
本州でのお墓参りのタイミングは、彼岸・お盆がメインです。
それに対して沖縄では、十六日・清明祭・お盆という3つの行事でお墓参りを行います。
亀甲墓を知ることは「沖縄を知ること」
沖縄に観光などで訪れた際に、沖縄のお墓の大きさに驚く人も多いでしょう。
本州のお墓とは異なり、まるで家のようにも思えます。
中でも亀甲墓は丸い亀の甲羅のような屋根が特徴です。
亀甲墓がなぜこのような形・大きさになったのか?
背景には中国や沖縄独自の思想・風習なども深く関連しています。
亀甲墓以外にも、沖縄には破風墓・屋形墓といった独特のお墓が存在します。
また 本州とは違って「風葬」の習慣があったことも、大型のお墓が普及した要因でしょう。
沖縄の歴史とともに葬儀やお墓の形も変化しています。
昨今は小型の屋形墓が広がりを見せつつあります。そういった背景もあり、お墓参りに付随する清明祭なども少しずつ形を変えてきているようです。
昔と比べて新たに亀甲墓を造ることは難しくなっています。
ただし 亀甲墓は沖縄の大切な歴史・文化の一部であることを忘れてはなりません。